本を読んで,学ぶ権利と公平性について考えた

こんにちは。平林です。今日は学ぶ権利と公平性の話です。

タブレットPCを小中学校に導入する時に必ず出てくるのが,

他にも困っている子がいるかもしれないのにその子1人に別の方法を認めることは不公平になるのではないか

という不安です。

しばらく前になりますが,河合隼雄さんの『カウンセリングを語る(上)』(1985年,創元社)という本を薦められて読んでいたところ,とても心に残った一節がありました。

”子どもを抱いて授業する先生”というトピックでした。小学校1年生の子どもさんでそれまで周囲から気にかけられなかった子が学校で先生と関係を築いていく中で「自分だけを見てほしい」と先生をつねる。先生は四十人に眼を配らなくてはならないので,その子だけを見ることができないのだけれど,その子の気持ちがよくわかったので,その子を抱っこして授業をしたというエピソードです。

”ひとり抱えて,みんなに教えるなんてこと,できるんだろうか。ほかの子が文句言わないだろうかとみなさん思われるでしょう。ほんとうは,ほかの子だって先生に抱いてほしい子がいっぱいいるはずですね。ところがその先生はちゃんとできたんです。なぜだと思いますか。四十人の中で,絶対に先生に抱いてもらわなければならない人がひとりいる場合というのは,私は抱いていいように思います。非常におもしろいことに,生徒たちはそれがわかるんです。小学校1年生の子は,何もあの先生はひいきをしているんではないということがわかるんです。(中略)その子は絶対にそれが必要と思ってやっていたら,みんな怒らない。”

この文章を読んで,わたしは本当にそうだなと思いました。タブレットPCを実際に通常学級に持ち込んだクラスでもこの例と同じことが起こっていました。ひとりだけ違う方法だけれど,その子にそれが必要だということは周りの子どももよくわかっていて,それを認めて尊重していたクラスでした。逆に,タブレットPCを教室に持ち込んで「あの子だけずるい」という反応があったという話を,私は実際に聞いたことがありません。

河合隼雄さんの文章はこのように続きます。

”しかし,先生がそうして教えていたら,勉強に熱がはいらなくなった子がひとりいる。その子は,やっぱりその次に抱いてほしい子です。つまりおかあさんとの関係が,この子ほどでもないけれども,次に問題のある子です。そのときに大事なことは,先生はひとりの子を抱きながらほかの子どもたちがみえていないとだめです。あ,あの子はかわいそうに,ものすごくかわいそうなことを,あの子に対して自分はしていると気がつく。そうすると,その先生はみんなが勉強している時にずっと回っていて,その子に特に声をかけてやる。「ようやっているね。」っていうだけでいいんです。あるいは肩をすっとさわるだけでも,その子はそれでだいぶ満足します。つまり,先生は自分のことを気にかけてくれているのだということがはっきりわかるわけですから…。”

タブレットPCの持ち込みに関しても,2番目の子どもへの配慮はとても大事なことだと思います。もし「いいな,あの子だけずるい」という反応をする子がいたら,それはその子のSOSかもしれないと思います。だから,人と違う方法が必要だったらそれを表明してよいのだということを子どもたちみんなに伝えておくことは大切なことだと思います。実際,タブレットPCを通常学級に導入した小学校の校長先生は,子どもたちにそう伝えました。

そしてさらに河合隼雄さんは,以下のようなメッセージを送っています。

”人間の心が自然に流れている,この子こそ抱かれてもおかしくないんだということがずっと心に流れているときというのは,子どもたちはそれを許容します。私はそういう点で,本当に生徒とか子どもというのを信頼します。われわれが本来的なことをやっている場合は,よっぽどルールと離れたことをやっていても,彼らは怒らない。彼らが本気で怒るときは,ぼくはどこかわれわれの方が間違っているんだと思います。だから,先生方は,自分の生徒あるいは児童をもっともっと信頼していいと思います。ほんとうにこうだと思うことを自分がやってみて,やったときにみんなはどう言うか。本来的なことをやった場合は,相当彼らはそれを認めてくれると思われていいんじゃないでしょうか。”

平林
公平というのは,みんなが同じでいることではなく,違っていてもそれによって排除されないということだと思います。『カウンセリングを語る(上)』,(下)はまだ読んでいませんが夏休みに読んでみたいと思います。
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